元ハイリスク妊婦&ミニマリストの日記

妊娠19週からの切迫流産、20週にして子宮口が開き始めるも奇跡的に助かった小さな命。産まれた赤ちゃんにまさかの先天的な問題。ハイリスク妊婦として過ごした妊娠~出産~NICU入院までの経緯を文字に残すためのブログです。その他、育児奮闘記やミニマリストを目指す日常についてもゆるりと書いていきます★

【⑱初対面時に感じた違和感】

18:55、出産。点滴を抜去してちょうど12時間後のことでした。


「死ぬかと思った」というのはこういうことを言うんだ、と心の底から思いました。普通は陣痛が始まったら少しずつ間隔が狭くなり少しずつ痛くなって出産、だと思うのですが。私の場合突然痛くなって、ものの10分くらいで産まれました。赤ちゃんが産まれた直後、激痛は嘘のように消え、同時に大量の冷や汗と突然の激痛で身体がビックリしたのか、全身がガタガタ震え「寒い、寒い!」と叫びました。


看護師さんが布団を持ってきてかけてくれました。赤ちゃんは…産声は聞こえず、直ぐに新生児科の先生が受け取って処置しているようでした。気道の羊水を吸引しているのか、ジュルジュルと音が聞こえます。私は放心状態で「赤ちゃんは?赤ちゃんは?」と言っていました。


赤ちゃんを産んだあとは、胎盤を引っ張り出す後産があります。義理のお姉さんはこの後産が痛かった!と言っていましたが、私の胎盤はいともあっさりと出てきました。お股も少し裂けてしまったようで、先生は注射針で麻酔をして縫っています。「中の方も裂けてないか見ますね」と言って器具を入れられたのですが、これが痛かった。先生は「これで最後にしますね」と言いつつ何度も何度も入れてくるので心の中で(嘘つき〜!!)と叫んでいました。


やっとのことでこちらの処置が終わるかという頃、やっと赤ちゃんの泣き声が聞こえました。普通元気に産まれた赤ちゃんの産声は「おぎゃー!!」なのに、私の赤ちゃんは「ほわ〜ほわ〜」と何とも可愛らしい声でした。それでも、産声が聞こえたことでとても安心しました。(良かった、ちゃんと呼吸してる)


「男の子です!」と看護師さんが言った時は旦那と顔を合わせて「やっぱりね」と言い合いました。新生児科の先生が息子を両手に載せて私の顔の近くに持ってきました。


初めて見た感想は、本当に、赤ちゃんがお腹の中に入ってたんだ!という感動。いくら胎動を感じていても、エコーを見ていても、実際に見なければホントに入っていたなんて実感できませんでした。紫色をして、目をぎゅっと閉じて口は大きく開けて泣いている赤ちゃん。この子が私の赤ちゃん!少しほっぺたをつついてみると、柔らかい。早産だったので小さい姿を予想していましたが、思ったより小さくはありませんでした。「これから処置をしますので」先生はそう言い残して息子をNICUへ連れていきました。


そして。初めて息子を見た時に感じた違和感。それは息子の右脚でした。普通、赤ちゃんの脚ってくの字に曲がって下に下がっていると思うのですが。息子は左脚は普通なのに右脚は股関節からぐっと頭の方へ上げられ、さらにぴんと伸ばされていました。つま先がおでこに付きそうなくらい。まるでバレリーナが片足を頭の上まで上げている姿勢のようでした。


旦那も、「かわいかったね!」と話しながらも、「脚、なんか変なところにあったね」と違和感を感じているようでした。私は「きっと、赤ちゃんだから、まだフニャフニャで柔らかいんだよ」といいながら、もしかして…まさか奇形じゃないよね?と言い知れぬ不安を抱き始めていました。


出産後は2時間も分娩台の上で過ごさなければなりません。冷や汗でビショビショになった病衣を看護師さんが着替えさせてくれました。途中「母乳が出てるか見ますね」と少しつまむと、何やら液体が出てきました。「うん、ちゃんと出てきてるね」。赤ちゃんを産んだあと直ぐ母乳が出てくるなんて、本当に身体って不思議。普通の出産であれば、産まれたらきれいにしてお母さんが抱っこすると、赤ちゃんは本能でおっぱいを探して吸うそうです。「早産で産まれた場合、その子に合わせた栄養たっぷりの母乳がでるんですよ」と看護師さんが言いました。


しばらく旦那と話しながらゆっくりしていると、隣の分娩室でもお産が始まったようでした。隣の分娩室とは完全に仕切られているわけではなく、声は丸聞こえでした。ただ、私と全く違い、お母さんの叫び声が聞こえない。聞こえるのは呼吸音だけ。静かな状態のまま、「おぎゃー!!」といきなり産声が聞こえました。あまりの余裕な出産に、旦那と目を丸くしました。あとから聞くと、お隣さんは3人目の出産だそう。私の「ギャー!」とか「助けてー!」とかの叫び声を聞いて、どう思ったのかなと恥ずかしくなりました。


あっという間に2時間が経ち、病室に戻りましょうと声がかかりました。お股の傷が気になってあまり上手く動けません。何とか車いすに載って、その日はとりあえず元のMFICUの部屋へ戻りました。


約12時間ぶりに戻った病室。見慣れた風景、寝慣れたベッドに横になりました。違うのは、点滴をしていないのとお腹がぺっちゃんこなこと。夕食が運ばれてきましたが、興奮からか食欲がなく旦那に食べてもらいました。「ちょうどお腹減ってたんだよね」とガツガツ食べ始めました。出産の時に私の胎盤を見て、ついでに看護師さんが運んでいた隣でお産した方の胎盤も見えてしまったようで、食欲なさそうにしていましたが。


赤ちゃんの処置が終わったら旦那だけ対面と説明に呼ばれるはずでしたが、3時間近く経っても一向に呼ばれません。私は(赤ちゃんは生きているのか?)と不安になりましたが、看護師さんに直接「生きていますよね?」と聞くのが何だか怖くて「体重は何グラムでしたか?身長は?」と聞きました。


推定体重の1700グラムを上回って実際は1929グラム。2000グラムには届かなかったものの、想像より大きめ。でも身長は40cmとおちびさんでした。看護師さんが「ちょっと切り取ってきました」と言って、木の箱に入ったへその緒を持ってきてくれました。半透明でみずみずしくて、螺旋状に巻かれたへその緒。中には細い血管が見えました。これが、私と赤ちゃんをつないでいた生命線。よく頑張ったね。


暫くしてやっと旦那が呼ばれました。「じゃ、行ってくるね」。「お願いね」。


私の方も産後3時間経ったのでお股に当てた大きな産褥パットを交換してもらい、トイレに行きました。恐る恐る用を足して、恐る恐るウォシュレットを使って、恐る恐るペーパーで拭きました。でも思ったほど傷は痛くありませんでした。それより出血がすごい。これから1ヶ月くらい、この悪露と呼ばれる出血が続きます。まあ、赤ちゃんを産んだのだからこのくらい当然か。


それから、期待と不安を抱えながらひたすら旦那を待ちました。でも待てども待てども帰って来ません。ものすごく不安になりました。看護師さんに聞くと、「NICUの説明って、長いのよね〜皆さんこんな感じですよ」と言っていました。


そして、3時間近く経ったでしょうか。時刻は、日付をまたいで0時すぎ。物凄く疲れ切った顔で旦那が帰ってきました。「まだ起きてたんだ?」そりゃ眠れるわけありません。


「どうだった?」と聞くと旦那は1枚の写真を渡してきました。その時の写真がこれです。

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息子と、2度目の対面でした。口には、呼吸器。やっぱりまだ呼吸器が必要だったんだ。一瞬かわいそうだ、と思いましたが、直ぐに可愛くてたまらなくなりました。よく頑張ったね、産まれて来てくれてありがとう。


NICUでは、赤ちゃんの病状やこれからの治療の他にもNICUの成り立ちとか、本当に細かいことまで話があったようです。話がすごく長くて、旦那も疲れ切って最後の方は記憶がないと言っていました。


そして、気になっていた右脚に話が及びました。


旦那「脚のことだけど。」


「やっぱり、あの脚、おかしいって。俺も見たけど、最初見た時と同じで変なところに曲がってた。なんか、膝が逆に曲がってる感じ。先生も見たことないから分からないって。ただ、正常な状態に戻そうとすると心拍が乱れたりしてストレスがかかるみたい。あの状態が本人にとって楽みたいだから、そのままにしてるって。明日、整形外科の先生に診てもらうって言ってた。」


私は愕然としました。やっぱり気のせいじゃなかった。息子の脚は異常だった。


旦那「すごく疲れたから、もう今日は休むわ。ネットで調べないようにね。」


旦那は念を押して、いつものように車で寝るために部屋を出ていきました。でも脚の異常なんて、なんて検索すればいいか分かりません。切迫流産になって3ヶ月踏ん張って、臍帯静脈瘤が見つかって。32週で早産して、息子は未熟児の上に今度は脚の異常だなんて。もし、一生歩けない身体だったらどうしよう。まだ何も分からないのに、分からないからこそいろいろと想像して、息子の未来を思って泣きました。泣いて、いつの間にか疲れ果てて眠ってしまいました。

私が唯一捨てなかった本

私が私物として持っている本はたった一冊です。それはフィクションの児童書。小学生の時に読んだ記憶があり、社会人になった頃ふとその本がまた読みたくなったのです。


でも本のタイトルがどうしても思い出せませんでした。覚えているのは、小学生くらいの女の子が老婆の姿をした悪い魔女に騙されて、身体を無理矢理入れ替えられる。老婆の姿となった女の子は元の身体を取り戻すために奮闘する、というものでした。私は曖昧な記憶を頼りにネットで検索し、やっとお目当ての本を購入することができました。それが「13ヶ月と13週と13日と満月の夜」という本です。


なぜこの本が記憶に残っているかというと、描写の仕方が絶妙だったからです。特に覚えていたのがこれ。



「白髪を整え、やぼったい古い服にはアイロンをかけた。その下にはぶかぶかで古くなってはいるけど清潔なブルマーをはき、血行をよくするのに効果のある医療用靴下をはいた。ぶかっこうだけど実用的な靴をはく。足には魚の目があり、巻爪が食いこみ、足が変形して痛いんだから、その靴が必要だった。足の爪は黄色くねじれ、でこぼこで、木の根に生えるキノコのようだと思った。入れ歯をきちんとはめる。眼鏡をタオルで拭いてから、階下にむかった。」



これは老婆の姿になってしまった女の子が、魔女に絶望している姿を見せまいと少しでもましな姿をしようと努力している場面です。ブルマって小学生が履くイメージしかなかったのに、お婆ちゃんも履くんだ?と子供ながらに不思議に思ったのを覚えています。自分もおばあちゃんになったら関節という関節が痛くなって、たくさんの薬を飲まなきゃいけなくて、階段を登るのも大変になるんだ。


この本が一番言いたかったことは、「今を大事に生きること」だと思います。魔女によって若い身体を奪われた女の子は、恋をしたり、家族を築いたり、好きなことをしたり、いろんなことを経験するはずだった。それを全部すっ飛ばして年老いてしまった。


本の中で、「この世で一番悪い盗みは人の時間を盗むことだ」とあります。お金を盗まれてもまた稼げるかもしれないし、名誉を盗まれてもまた回復できるかもしれない。でも時間は特別。


私が以前働いていた職場で、性格はくせがあるけど正論を言う人がいました。その人が、「この世で唯一平等なのは時間だけだからね。」と言っていたのがとても記憶に残っています。お金も平等じゃない、男女も平等じゃない、容姿も平等じゃない。だけど、時間だけはみーんなおんなじ。タイムマシーンが開発されない限り。


100歳まで生きる人と若くして亡くなってしまう人は時間的に平等といえるのか?と思いましたが、それはその人その人の寿命であって、その人が生きた1分1秒は結局同じ。大泣きした1分も、お腹を抱えて笑った1分も同じ。時間だけはこの世で唯一平等に流れている。


だからこそ、今を大事にしなきゃなと思います。私は今、「早くお金を貯めて家を買って家族で好きなように暮らしたい」とばかり考えています。そのことばかりに気を取られて、「ああ、早く、早く。」と今を疎かにしている気がします。でもそんなことで時間を大切にしないのはとても勿体無いですね。


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今日は散歩で青々とした植物が力強く育っているのを見つけて、その姿が何故かとても魅力的に見えて写真を撮りました。本当はいつもそこにあるのにただ通り過ぎていただけでした。こういうのに何気なく気付けるようになったら、時間を大事にしているような気がします。

【⑰出産当日】

11月24日、AM6:00過ぎ。建物が揺れる感じと、「ギーギー」と軋む音で目が覚めました。看護師さん達が声掛けをしながら病室の扉を開けて回っているのが分かりました。


今日はいよいよ点滴を抜く日。幸い地震は大したことなかったようでした。前日から付き添いで泊まっていた旦那も目を覚まし、トイレと洗面を済ませました。


7時頃。看護師さんがやってきて点滴が抜去されます。血管は穴だらけ、腕は刺したあとが痒くて掻きむしってしまい、傷跡だらけ。それでもやっと、管から解放されました。3ヶ月間お世話になったウテメリンとマグセント。両方とも流量は最大値でした。強い薬で抑えていた分、張り返しといって強い張りが起きてそのまま陣痛となり出産する…というのが今後の予定でした。


看護師さん「恐らくそんなに時間はかからず産まれてくると思うので、このまま陣痛室に移動しましょう。」


陣痛室とは、分娩台に登る一歩手前の部屋です。分娩室と廊下を挟んではす向かいにありました。陣痛室は病室と同じように、ベッド、テレビ、トイレ、そしてソファーもありました。旦那と一緒に貴重品だけ持って移動します。ここで担当してくださった看護師さんや助産師さんは、今まで見たことのない顔ぶればかりだったので少し不安になったのを覚えています。


朝食を摂りゆっくりしていましたが、特に陣痛らしきものは感じません。ただ、今まで感じていた張りが少し強くなって頻繁になったかな?という感じ。これが進めば陣痛になるのでしょう。


主治医のA先生がやってきて子宮口の開き具合を見るために内診をしました。


「ちょっと、旦那さんは部屋から出てて。」


そしてこの内診が痛い!子宮口を指でグリグリ。「今のところ、5cmってところですかね。」


その時、「ん?」と先生が首を傾げました。「子宮口に何か挟まってるな…手かな?へその緒だったらまずいな。」もしへその緒が挟まっている場合、出産時にへその緒が圧迫されると赤ちゃんが危険なため、その場合は帝王切開に切り替えるそうです。


(ええ!?ちょっと待って、ここで帝王切開!?)と焦りました。経膣エコーも使って確認したところ、どうやらへその緒ではなく赤ちゃんの手だったようでした。もう一度内診すると、「今、赤ちゃんと握手しました笑。」と先生が。先生が笑うなんて、超レアです。そっかー、我が子は生まれる前に握手を経験したか、と私も和みました。


「この方は気をつけなきゃいけないから、モニターはずっと付けてて」とA先生が支持し、モニターをお腹に巻きました。胎児心拍は大体130代〜140くらい。いつも通りです。


その後昼食を食べたあとも特に変化は見られません。でもモニターは大きな張りを検知しており、「陣痛、来てるよね?痛みに強い?」と助産師さんに言われました。うーん、全然痛くないんだけど…これが陣痛なはずないよね?陣痛って、泣き叫ぶほど痛いんでしょ?


旦那も私が全然痛がらずいつも通りなので、あくびをしたり昼寝をしたり超余裕でした。


私「ちょっとトイレに行きたいのですが…」

助産師さん「大きい方じゃないですよね!?」

私「あ、小さい方です…」

絶対いきまないでくださいね、と言われてモニターを外してトイレに行きました。というのも、陣痛は強い生理痛だったり、下痢便、いわゆるテロリストが出そうな時の痛みにも似ているそうです。よくネットでも、う○○が出るー!!と叫んで出産する人がいる、と読んだことがあります。


トイレを済ませてベッドに戻りモニターを付けた瞬間。さっきまで130代で正常値だった胎児心拍が、なんといきなり60代まで落ちていました。助産師さんが血相を変えて、でも冷静に先生に携帯で連絡しました。その間、心拍はすぐに戻り、再び正常値に。


「今、胎児心拍が60代まで下がりまして。今は戻っていますが…」何やら話をしたあと、「分娩台へ移動しましょう」。私もさっきの60代に下がったことが心配で、混乱しつつも分娩台に登りました。


時刻は午後の3時頃だったでしょうか。しばらくして先生が来ました。担当してくださる先生は主治医のA先生ではなく別の先生でした。でも何度か内診して貰ったことのある先生です。この時の子宮口は7cm開大。モニターでは大きな張り(陣痛と思われる)を感知しているのにも関わらず、私が全く痛みを感じていない。いつもの張り、という感じ。故にあまりお産が進んでいない…


私が全く痛がらないので旦那は余裕な態度をとっていたのですが、ここで先生から喝が。「旦那さん!奥さん痛がってるでしょ!ちゃんと励ましてあげて!陣痛も、何分間隔か測ってあげて!」旦那は先生の喝に驚き、それから「今張ってる?」とか「痛みは?」とか聞いてくるようになりました。…ごめんよ、旦那。私全然痛くないのよ…無駄に怒られてしまったね…


それからというもの、内診は凄く痛いのですが、それ以外に痛みは感じず…お産が進まないことと先程の胎児心拍が下がったことも踏まえて、「帝王切開をした方がいいのでは?」と先生から話がありました。


帝王切開か…お腹を切るのか…どうせお腹を切るなら、今までの陣痛は何だったのか?(本当は全然痛くない)と考えていると、助産師さんはそれを察したのか「今までの陣痛は全然無駄じゃないですよ。陣痛があることで、赤ちゃんは「ああ、外に出る時が来たんだー」って感じ取って、ちゃんとそのための準備をしているんですよ」と教えてくださいました。


夕方18時ころでしょか。日勤の看護師さん達が帰り始めたのか、明らかに周りにいる人が減り始めました。「ちゃんと近くにいますからね」と言われても、何だか取り残されるような、言いようのない不安が襲ってきて泣いてしまいました。


その時、先生がやってきて、私が泣いているのを見て「お母さんになるんだから!しっかりして!」と今度は私が喝を入れられました。


私は旦那と相談して、「このまま進まないのも辛いから、お腹を切ってもいい」と覚悟を決めました。お腹を切るなんて経験したこともないですし、当然怖かったです。ですが、また心拍が下がったらどうしよう…という不安が勝りました。とにかく、無事に産みたい。旦那は「分かった」と了承して、助産師さんに先生を呼んできてください、と頼みました。


旦那と話しながら先生を待っている時。ふと、お腹の中で赤ちゃんが「ゴロンっ」と動く感覚がした途端。今まで生きてきた中で感じたことのない、強烈な痛みが下腹部を襲いました。





「いったーーーーーい!!!!」






私は身をよじらせてそう叫んだと思います。そして股から生暖かいものがダバダバダバー!!と流れ出る感じがしました。左隣にいた旦那が光の速さで私の右手側にあるナースコールを押しているのが分かりました。


ナースコールを聞いて、担当の助産師さん、今までずっとお世話をしてくれた師長さんが駆けつけました。私は股から流れ出たのはきっと羊水で、破水したんだと思い、「破水した!破水した!」と痛みの中狂ったように叫びました。


私の右隣に駆けつけた師長さんはバスタオルをめくって下半身を確認したあと、「あらあら」と言ってまた直ぐに隠しました。この時、実はまだ破水しておらず、出てきたのは大量の血液だったようです。旦那が近くにいたのですぐ隠したのでしょう。


気絶しそうなほどの痛みの中、先生や看護師さん達が続々と集まってくるのが分かりました。左手は旦那の手を握り、右手は代わる代わる現れる看護師さんの手や服を引っ張りまくりました。いきむためのバーなんて、全然使いませんでした笑


「助けてー!助けてー!」と私は叫んでいました。この出産に赤ちゃんが耐えられるか心配で、赤ちゃんを助けて!というのと、自分も痛すぎるから助けて!という意味で。いつの間にか分娩室には15人ほどの人が集まっていて(NICUの先生やスタッフも駆けつけていた)、慣れ親しんだ看護師さんの顔もちらほら見えました。お世話になった看護師さんから、「今が一番の頑張りどころだから!」と言われたのが強烈に記憶に残っています。それを聞いて、「そうだ!お母さんになるんだから!」と決意して、ギャーギャー騒ぐのを止めました。


痛みで息を止めてしまうと、へその緒を通じて呼吸している赤ちゃんに酸素が届かず苦しくなってしまうので、息は止めないでください、と念を押されていました。でも強烈な痛みの中、それは容易ではありません。


先生から「はい、いきんで!」と許可がでました。子宮口が全開する前にいきんでしまうと産道が切れてしまいます。いきむときに目をぎゅっと瞑っていきんだら、「目を開けて、赤ちゃんの方を見て!」と指示されました。いやいや、ムリムリ〜!!と思いながら必死の形相で目をひん剥いて下を見ました。相当ヒドイ顔だったと思います。いきむときに吐息が漏れてしまうのですが、それも「はいダメ!もう一度!」と言われてしまってスパルタ先生でした。4度目くらいにいきんだ時。「ズルンっ!」と出てくる感覚と同時に、今までの激痛が嘘だったかのようにふっと消え去りました。赤ちゃんの産声は聞こえませんでした。

入園準備

入園がどんどん迫ってきました。入園準備も大方整っています。服は甥っ子のものを頂いて、靴はまだ歩けないので様子見です。歩けるようになってからでもお下がりが6足もあるし…これからは服も靴もサイズアウトの嵐でしょう。


お食事セットや歯磨きセットを入れる巾着袋、さらに着替えを入れるナップサックは手作りしました。ミシンを持っていないので手縫いで笑 流石に布団カバーは手縫いは厳しいので縫製の仕事をやっている叔母に頼みました。表がクジラ柄で裏が青のストライプ。まだ届いてませんが楽しみ!巾着袋は一目惚れした柄の布地で作りました。黄色地にシマウマ柄。息子が混乱するといけないのでお食事セットと歯磨きセットの柄は分けました。


息子の入園式の服は前にじいじが買ってくれたジャケット。なかなか着る場面がなく全く袖を通していませんでした。せっかくなのでここで登場。ジャケットだけだと寂しいので蝶ネクタイを手作りしました!最初は旦那が結婚式の時に付けた蝶ネクタイをそのまま付けさせてみたのですが嫌がって嫌がって笑 スタイはいつも付けているのに、蝶ネクタイの厚みが嫌なのか…?それならばと同じ柄のハンカチで蝶ネクタイを手作りし、ジャケットにくっつけました。全然嫌がらず、成功(о´∀`о)当日はこれに緑のタータンチェックのパンツを合わせて行く予定です。


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あとは水通しをして持ち物にひたすら名前を書いたら完璧です。


今日の夜中、息子が寝言で「ママ…ママ…」と言っていました。起きているときは普通に「ママ」と呼ぶようになったのですが、寝言で言われると愛おしさ100倍(о´∀`о)逆に、寂しいとか、そういう意味で言っているのか?とも不安に。息子は保育園に入るなんて分かっているはずもないのですが、一番寂しい思いをするのは息子なんだろうな…今まで、一時も離れず一緒にいたので新生活がどうなるのか想像もつきません。でも新たな生活のため、やるしかないですね。

【⑯ 32週での出産に向けて】

出産の日取りがあっという間に決まってしまいました。看護師さんが「旦那さんに電話できる?」と聞きました。…そうだ、まずはこうなったことを報告しなければ。


時刻は旦那の仕事が終わるか終わらないかの頃。かけてみると、すぐ出てくれました。そして案の定…話し出す前に私は泣いてしまいました。泣けてきて何も話せません。旦那はこのとき、「やっとここまで来たのに、今度は何が!?」と焦ったそうです。


やっとのことで伝えました。臍帯静脈瘤のこと。8%の確率のこと。木曜日に点滴を抜去すること。きっとその日のうちに産まれること。そして、今のところ、赤ちゃんは元気なこと。


旦那は水曜の祝日に病院に行く、と言いました。そのまま泊まって、木曜日も付き添うと。


寝る時間になってようやく落ち着きましたが、とても不安だったのが先生の言った「8%の確率で血栓か飛んで赤ちゃんが亡くなってしまうこと」でした。今、この瞬間は大丈夫なのか?血栓なんてそんなすぐできるものではないのかもしれませんが、とにかく不安でした。頻繁にお腹を意識して、胎動の有無を確認していました。


臍帯静脈瘤がわかる前から、切迫以外に「子宮内胎児死亡」も怖かったです。原因は様々ですが、いつものように検診でエコーをするも、胎児の心拍が確認できない…私はエコーのときはいつもドキドキでした。例え胎動はきちんと感じていても。切迫になってこれほど頑張っているのに、もし、万一お腹の中で亡くなってしまったらこれ以上悔しいことはありません。そのことがより一層私をナーバスにさせていました。


よく聞くのが、臍帯過捻転。詳しい原因は不明ですが、赤ちゃんが動きすぎることなどによりへその緒が捻れて酸素や栄養の供給が滞り亡くなってしまう。これは事故のようなもので誰しも起こりうるし誰も悪くない。お腹の中で起こることなので予防もできない。


子宮内で亡くなってしまった場合、初期であれば自然に出てくることもありますが、赤ちゃんが大きくなっていれば普通の出産と同じ手順を踏むようです。薬で子宮口を無理矢理開かせて、お腹を痛めて産んであげます。


私は入院中妊娠に関するいろいろな病気を調べました。ブログも読み漁りました。これがもし自分に起こったら…と泣きながら読みました。どんな健康で順調な妊婦さんでも、100%安全なお産はない、とコウノドリでも言っていましたね。それほど赤ちゃんを産むということは、みんな簡単にやってのけているようで実は隠された苦労があったかもしれないし、奇跡の連続なんだと思います。


旦那は水曜日に病院に来て、珍しく車泊ではなく簡易ベッドを借り私の横で寝てくれました。緊張でなかなか眠れませんでした。帝王切開ならまだしも、自然分娩で生む日が決まっているなんてなかなかないのではと思います。明日の夜には、私のお腹はぺっちゃんこになっていて赤ちゃんに会える。お腹に赤ちゃんがいる最後の夜。胎動を感じて眠りにつくのも最後。


点滴を抜いて、いったいどのくらいで産まれるだろうか。看護師さんはもう子宮口が5cmくらい開いているので早いだろう、すんなり産まれてくれるんじゃないか、と言っていました。でも陣痛は痛いだろうな。義理のお姉さんは結構難産だったようで、最後の方は「もう腹を切ってくれ!」って思ったそうです。


いつの間にか眠ってしまい、木曜日の早朝6時ころ。なんと地震で目が覚めました。この病院は耐震のためにわざと揺れやすい構造になっているようで、4階の私の病室はかなり揺れました。看護師さんたちが急いで病室の扉を開けて回っています。幸い大したことはなかったようですが、揺れながら建物がきしむ音が聞こえてかなり怖かったです((((;゚Д゚))))なんという一日のスタート…でも泣いても笑っても今日が最後。最後であって始まりの日でもあります。

結婚記念日

昨日は2回目の結婚記念日でした。私達は付き合った記念日に籍を入れました。3月15日で“最高の日”です。


結婚記念日に何をするかは夫婦それぞれでしょうが、家ではちょっとしたご馳走を作ってます。去年はちらし寿司ケーキとティラミスを作ったのですが、今年はグレードを落として3色いなり寿司(о´∀`о)材料費は1000円!でも喜んで食べてくれました笑


午前中は天気がかなり良かったのでアンパンマン号に乗って近くの海へ\(^o^)/
すると偶然ママ友に会いました。自転車の前と後ろに長男くんと次女ちゃんを乗せてさっそうと現れました!このママさんは妊娠中で、一つの自転車に4人乗っているようなものです笑

因みにもう一人長女ちゃんも居て、このママさんはまだ30歳なのに4人目を妊娠中なんです。素晴らしい!地域の少子高齢化ボトムアップしてくれています!


尊敬すべき点は子沢山なことだけではなく、性格が本当に太陽のようなのです。いつもニコニコしていて、大変さを表に出さない。私が初めて支援センターに行ったときも一番最初に話しかけてくれてママさんたちの輪に入れてくれました。私が今まで会った人の中で一番“太陽”とか”ひまわり“という言葉が似合う方です。


Mさんとしますね。Mさんは私と同じく同居です。家の義両親とは違い、Mさんの義両親は育児によく干渉してくるようです。ベビーフードはなるべく食べさせない、3歳までは保育園に入れない、保育園グッズなどは買わずに作れるものは手作りする。そんなことは親の自由でしょ、と思いますがMさんはちゃんとこなしています。


もちろんMさんも文句はあるでしょうが、義両親の協力を得ながらうまくやっているようです。尊敬します。

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記念にパチリ(о´∀`о)Mさんの長男(3人目)と家の息子は同級生です。予定日もほぼ同じでした。アンパンマン号に乗ってる方が息子です。将来どんな友になっているでしょうか。楽しみです(о´∀`о)

育児の中心は母親

かなり暖かくなってきました。日中は上着が要らないほどです。昨日はいつも通り支援センターから帰ってくると息子は寝てしまい、しばらく寝ていました。起きたらお昼ごはんを食べさせて時刻は14時ころ。


「散歩に行こうか」とお義母さんが息子を連れ出しました。ああ…暖かくなるということはまたこの季節か…息子は1歳3ヶ月になりましたがまだ歩けないのでベビーカーででかけたようでした。


以前、嫌な経験をしたので本当はあんまりいい気持ちはしません。それは息子がまだ生後5ヶ月のころ。「お墓参りに行く」と言ってお義母さんが息子を連れて車で出掛けました。お墓は車で10分位の場所。「せいぜい1時間くらいで帰って来るだろう」と思っていたのですが。待てども待てども帰ってきません。15時半ころに出かけて、19時を過ぎても帰ってきません。おむつも持っていってないし、息子はまだ完母です。流石に旦那も待てなくなり、電話したところ、「今帰っている途中」と。結局帰ってきたのは19時半。どうやら親戚の家に遊びに行っていたようです。本当にありえないと思いました。でもそのときは何も言わずに我慢。今思えば、はっきり言うべきだったと思います。せめて、電話の1本くらいください、心配だから、と。



昨日も案の定…3時間経っても帰ってきません。いくら暖かい日とはいえ、夕方17時を過ぎれば次第に肌寒くなってきます。一体どこまで行ったのか…いつ帰ってくるのか。


ヤキモキしていると家の外の道路で遊んでいるのが見えました。なんだ、帰って来ているのにまだ家に入らない…息子はその時軽い風邪が治り始めたばかりというのもあり、3時間以上も外に居させるのが嫌でした。飲み物もおむつも持っていってません。


我慢できなくなり、外にでて息子を抱き上げて家に入りました。「流石にずっと外にいるのも」と言ったら「違うよねー○○の家で遊んでたんだよね」と。私は腹が立ってお義母さんに冷たい態度をとりました。


その後どうもモヤモヤして、私の心が狭いのか?と悩みました。そして、モヤモヤしているのも嫌なのでお義母さんに素直に謝りました。「さっきは変な態度をとってごめんなさい」。「いいよ、全然」と言っていました。


旦那が帰ってきて、その話をしました。「前も同じようなことがあったのに、また?」少し怒っているようでした。旦那はお義母さんの愚痴を話すと必ず同意してくれます。もし「そんなことで怒るの?」なんて言われたら私はすごく悲しくなるでしょう。


今日、また支援センターに行くと、保健師さんが来ていました。この方は息子が退院して1ヶ月経ったときに保健師訪問で自宅に来てくれた方でした。「なにか、悩んでいることはない?」。私は昨日の出来事を話しました。そして、保健師さんからの言葉にとてもとても心が救われました。


まず、私が怒るのは普通の感情。お義母さんの行動は配慮が足りない。生後5ヶ月で長時間お母さんから離すのはもちろんのこと、昨日のように散歩が長時間に及ぶなら、出掛ける前に言うか、途中で電話をするべき。そして帰ってきたら、「遅くなってごめんね」といってすぐに家に入る。

私のほうも、出掛ける前に「ちょっと風邪ぎみだから早めに帰ってきてね」と一言あったら良かったかも。


そして、「お義母さんのとった行動で、何が一番嫌なのか、よく考えて見ましょう」と言われました。普段、お義母さんへの不満はあまり思いつかない。でもなぜか、散歩に連れて行かれるときだけ物凄く抵抗がある。「おむつもお茶も持たずに出掛けた」のが嫌だったんじゃない。「目の届かないところに行くこと」か?いや、一番の根っこは、「いつ帰ってくるか分からなくて不安なこと」だった。


「もしかしたらお母さん(私)が幼少期に、【いつ帰ってくるか分からないこと】で深く不安になり、トラウマのようになってしまったのかもしれない。それでそのことで母子が離れることに過敏に反応して嫌悪感を抱いているのかも。」


ここでは書きませんが、思い当たる節がいくつかありました。私は幼少期、自分の母親との関係で大きなトラウマを抱えています。


「子育てをしていると、自分がどう育てられてきたかを振り返る場面が沢山ある。でも、それは別物だよ。お母さんが生きてきた幼少期と、いま息子さんが生きている幼少期は全然違う。」


心に刺さるものがありました。



お義母さんのことについては、関係を築きながらうまく嫌なことは嫌だと伝えること。ある程度我慢するのも一つの手。でも「子育ての中心は母親」ということを解ってもらうこと。あくまで私が「こういう育児がしたい」と思ったら、それに協力してもらうこと。強制ではなく、納得してもらった上で。旦那は、愚痴を話して同意してくれる立場でいい。間に挟まって間を取り持ってくれることは望んでいない。たぶん、取り持てないから笑 自分の母親に、上手にニュアンスを崩さずに伝えるのはきっと難しいでしょう。それなら、当事者である私が、うまく整理して自分の言葉で伝えるべきだと思います。


うまくできるでしょうか…でも、保健師さんと話したことでかなり楽になりました。自分の気持ちは異常じゃないって分かりました。他にも同じような感覚をもつお母さん方がいることを知りました。それだけで自信が持てました(*^_^*)